スピリチュアルセラピーのヒーラーで、私の友人であり、同僚であり、先輩でもあるNさんと、昨日仕事が終わった後、ちびちびと珈琲を飲みながらお互いのプライベートな話をしていた。
週に一度は、こういう機会がある。
古い友人のhi-ちゃん同様、彼女は私のヒーラーであり、
私はNさんのヒーラーだったりする。
私の本業は、別にあるのだけどね。
Nさんは、私の全てを知っているわけではないけれど、
一緒に仕事をするようになってから5年。
それ以来、子ども達の次に時間を共にして、話をし合う関係ではある。
その彼女からいつも言われる。
「強すぎる貴女が心配」
私の環境や状況では、普通はとっくに壊れてる筈だそう。
そうなのかなぁ? そんなことないんじゃない?
強いってなんだ?と、思っていたけど、
スピリチュアルな事を本職にしている彼女が言うならそうなのかもしれないと、ちょっと考えた。
私は決して、守ってあげたいと思われるタイプじゃない。
「手を差し伸べる相手をどちらか選べ」
という選択を迫れれた人は、きっと私ではない人を選ぶ。
「貴女は強い。一人でもなんとか頑張っていける人だから大丈夫だけど、
あの子は弱い子だから守ってあげないといけない」
と、母は亡くなる直前まで兄の心配をしていて、その役目を私に託したり。
これはもうお墨付きだわ。
いっそのこと壊れちゃったら楽なのか?
そうなんだ。
今の私は、自分の強さを少しだけ切なく感じていて、
弱ってしまえば手を差し伸べてくれるかもしれないとか、
壊れられたら自分で立ち向かわなくて済むしどんなにいいだろう、
という無責任な感情の波に飲まれそうになる。
だけどそれって、本人もさることながら周りの人の方が大変なのを、私は良く良く知ってる。
私の友人や知人にそれに該当する人たちが、結構いたりするし、相談を持ちかけられることも少なくない。
心が弱っている人全ての人がそういう訳ではないけれど、
そこに属してしまっている人たちの多くは、自分は誰かや環境や社会に傷つけられ、
痛みを負わされたという受動的な感情が溢れて、誰かの所為にしてしまいがち。
無意識のうちに。
ただし、それを決して責めるものでもない。
でもね。
自分の感情や心は自分で操作しているもの。
落とすのも、上げるのも自分だって事。
自分の人生は、最初から最後まで自分が主役なんだから、
誰かの所為にして、脇役に回っちゃダメなんだ。
幕が閉じるまで、責任を持って主役を張らなくちゃ。
ある意味、負け惜しみかもしれない。
正直に言うと、悔しい気持ちだってある。
色々考えてはみるけれど、私は結局、
折れるほどの繊細な神経や感情の持ち主に憧れながら、
決してそれにはならないとブレーキをかけて生きてく。
今は元気じゃないかもしれないけど、弱ってもいられない。
矛盾だらけだけど
それが、私のちっさなprideなんだ。